ケイタソ、SMを語る。

どうも、休暇も残すところあと2日のケイタソです。
今日は僕がメインでやっているプロジェクトチームの派遣さんが辞めるため、その送別会に行ってきました。


で、なんでこのタイトルになったかというと、そこでも僕はS*1認定されたからです。
遥か太古の時代より僕は第三者からS認定され続けているのですが、2年間一緒にやってきたチームからというのは初めてです。


僕がどう考えているかというと、僕の定義に従うならば、僕がSであることは確かであると思います。


そう、S、それは即ち「隣人愛」。
そこにいるM*2な人がされて嬉しいことをしてあげるわけです。
そのためには観察と仮説検証を重ね、適切なタイミングで確かな一発を入れること。これに尽きますね。
これが決まると、Mの人には「ああ〜そこ!そこ!」と思ってもらえます。またはオイシイところをMの人に持って行かせることができます。


相手を喜ばせるためならピエロにもなる。それがSです。
例えば、相手がツッコミタイプの人なら、きれいにつっこめるボケをかましてあげるわけです。
これもひとつの「隣人愛」の形です。


ただ、正直者につき、演技は上手くないので、Mを装うことはできないんですね。
僕のような出来たSなんてそうはいませんから、Mを装っても誰も嬉しくない。


そんなMの定義はというと、「自己愛」ですね。
その空間における自分自身の存在や役割を確認できると嬉しいわけです。
外部作用としてその存在を確認させてあげるのがSの役目です。


SMというと暴力的なイメージがどうしてもつきまといますが、暴力無しでもSMは成立しますし、むしろ暴力とSMは別の座標軸で語られるべきです。
一般的なSMのイメージから考えると、あれは「暴力『のような』演出」であり、暴力であってはならないと思います。
決してそこを勘違いしてはいけない。
人間を自然と切り離した科学的見地に立てば、暴力という動物的な問題解決方法は、思考というより強力な凶器を手に入れた人間には不要なものなのです。暴力とは人間水準の知能を有することができない動物レベルの所行であるというわけです。


ちょっと横道にそれましたが、以上、Sは「隣人愛」、Mは「自己愛」というお話でした。

*1:サディスト

*2:マゾヒスト